* フォグ・ノートについて *



あるがままの中にふと気づくと、美しさや真理はなにげなくでているもの。
 
どんな辛い経験も、いとおしく思えるような気持ちで終えると、次の課題にうつることができる。
 
人の欠けている面とは、相手の力を引っ張り出す能力でもある。
自分の最も魅力ある面を、引っ張り出してくれる欠けかたをした不完全な相手が必要。
 
「何者でもない」状態が基本。でも「何者かでなければならない」を基本にすえていると、幻想から出ることは難しい。
 
愛のものまねは続けられないし意味がない。
愛は必然に基づいて表現されるもの。
 
評価は第三者が行うもの。二人称の関係には評価は必要ない。
 
トラウマにも2種類ある。
一つは苦痛。
もう一つは快感。
どちらも傷。
どちらも意識に焼き付けを起こし、囚われがちになる。
 
何気ない、一瞬一瞬の応対が「私」であり、定義づけられない。
 
大きく分けて、人生や表現は二つある。
自己主張と愛。
 
二人称か、あるいは三人称か、どちらに生きるのかによって、愛か、打算(概念)かが決まる。
 


 
「私はいいかげん」というような、私の認めたくない部分を他者に投影する。
つまり、自分の闇を他者に見る。
 
自分にはないと思っているさまざまなキャラクターを、すべて自分の可能性だと認めたとき、愛になる。
逆にキャラクターで見続け、憧れたり嫌ったりするほど、愛から遠ざかってしまう。
 
罠にかからないためには、どんなに崇高なイメージを投げかける人物も、神聖化してはならない。
ある人物を神聖化することによって、他の人々を見下してしまい、注意深さを失う。
 
さまざまな憎しみの対象や、どうしても好きになれない人や、どこにも希望を持てない背景が、私を悩ませ成長させてくれている。
 
光をつくりだすと影ができる。
いい人になろうとするから悪人になる。
強くなろうとするから弱くなる。
美しくなろうとするから醜くなる。
 
恐怖は自分の中にある。
 
「私の暮らしは不自然だ」だから「あるがままに向かおう」とすると、もっと不自然な状況になってしまう。だから「あるがままに向かおう」とせず「あるがままの自分の不自然さを理解する」こと。
 
その人のエゴイズムの動きに理解を示すと、ますます増長するように思うから、つい否定してしまうが、その人の立場に立って解ってあげ続けると、なぜかその人も理解を示しだす。
 
思考は理解しようとはせずに、解らないものを排除しようとする。
 
「あるがまま」とは「思考のあるがまま」と「宇宙のあるがまま」があるから、見極めが大切。



二極性は磁石と一緒で、N極だけを強化することができない。
N極を自信とか優越感、安心だとするならば、
同時にS極の無力感や劣等感、恐怖を同時に強化してしまう。
 
価値判断せずに、自分のできることをして、あとは宇宙に任せる。
 
一時期を見れば、暴力と憎しみ、執着といったおぞましさも、壮大なドラマとして見ると、そこには必ず自然のリズムが奏でられている。
 
不足は喜びを生み、
足り過ぎは負担を生む。
 
力は外側でなく、自分自身の中にある。
 
人のあらゆる言動は「空」への抵抗である。
 
幸福を設定した途端に、不幸が同時に発生し、それから逃げる状態に陥ることが本当の不幸。
 
霊的成長を望む人は、あるがままを写す対象を大切にする。
 
意識が具体的に集中した者になりやすい。だから否定した存在にも似てしまう。
 
自分にないと思っているものは、経験させられる。



「自分の人生を生きる」ということは、一見誰もがしていることでもあるが、えてして他人の人生をなぞってしまう。
 
「私は」とか「あの人なんて」とか捉えると、エネルギーとして受け止められないが、ひとつの物語的なエネルギーとして分離なく感じる必要がある。ひとつとして感じ、理解されれば、この物語のエネルギー自体を解読することができる。
 
愛の探求と思っていても、結局誰かに羨ませがらせたい見栄えに走っていると、空しさや、無力感からくるイライラがつきまとう。
 
ある出来事を肯定したり否定したりすることで、理解したと勘違いしがちである。
 
二極は本来、補い合い、ひとつになろうとする愛である。これを誤解すると、差別や対立にしてしまう。
 
エゴイスティックとは、傷つけられるのではないかという恐怖が基になっている。
 
自分が傷つけられた方法はマスターしてしまう。
 
思考は、心に吹く風に一々幻想の意味づけをしてしまう。
中立は、それはただそうあるだけであり、意味や肯定も否定もない。 
 
関係という課題から逃れることはできない。
対称性(男女)の統合は、三次元の普遍的な課題。
 
全体は美しく、可能性に満ちている。一方、個別の立場に立ったときには、恐怖や暴力があるが、その個別なものたちが作りあげるのも全体である。



自意識過剰になると自己をかばい、恩着せがましく、恐怖に囚われ、強制され縛り付けられている被害者のように感じてしまう。「私が」という感覚から解放されることによって、縛り付けられている感覚から自由になる。
 
人間はあるがままの自由に耐え切れず、判定や掟にすがりつくことによって安心を得ようとする。
無条件を軽蔑し、掟に仕えようとする。責任逃れをしたいからだ。
 
物事の本質的なものを捉えられないから、「難しい」とか「気持ち悪い」とか形容詞的に結論づけて終わりにする。そうやって自動反応しているから、起こっている背景を理解することができない。
 
うかつに取り組むと、記憶による自動反応しか起こらない。
 
人は夢を見てそして傷つく、けれどまた同じ夢を見る。
 
「幸せのかたち」を求めてたどり着いても、空虚な実感しか感じられない。そこで、違う「かたち」で求めるが、空虚感にとどまらず絶望感すら感じるほどのところに来てしまう。つまり「実感」を「かたち」で追い求めても無駄だということに気がつかなければならない。
 
本質の自己が目覚めるには、愛する対象が必要。
 
異性とは、失われた私でもある。お互いに理解し合った時に、意識の科学変化が起きる。このハードルは最も高いために、しばらくチャレンジしたとしても、社会性や同性同志の関係に立ち返ってしまう。
 
情報として認識している部分と、影の情報がある。例えばCM、表面的には「買いなさい」とは全く言っていないが、影の情報に「欲しい!」と反応してしまう。CMを見たからではなく、自分の欲求、ひらめきとして認識してしまう。わかりやすいCMから何気ない会話など、コントロールされたのか、自分の欲求なのかの区別がつかない。
 
表面的な問題に囚われているために、「なぜ人は愛せないのか」という究極の問いに至れない。



人間は「何者かになる」ものだと思うようになった。それは機械になることだ。愛した時に、人間とは、自分とは、どういう生きものであるのかを知る。「何者にもなる」必要がなくなる。
 
家族関係が煩わしいと感じた時、道を逸れている。
 
夫婦関係、親子関係、友人関係など、それぞれの関係の性質を取り違えるから歪んでしまう。
 
着飾るのではなく「着隠す」。こうした考え方はすべてにゆきわたっている。隠した部分がいずれ露出し、存在を主張することになる。
 
愛の傷が独特なあでやかさを放ち、引き寄せられる。
 
認めてもらえなかったエネルギーは問題を引き起こす。
 
愛という問いは、多くの人にとっての恐怖である。
 
宇宙は、全体、どの階層、部分も等価値である。その困難は等しい。
 
私たちは循環しながら、成長していくという螺旋構造をたどっている。
 
慣習にのっとって一見まさつを起こさないように生きていくことで、腐敗をもたらす。



誰が何と言おうと、「私はパワフルだ」。
 
概念とは、世界を市場化するもの。
 
儀式は本来は自然を思い出すためのものだが、何らかの闇に閉じ込める呪いとして作用してしまう。
 
人は困難に直面し、混乱しないと真理や愛を見出そうとしない。
 
カルマは愛や真理を求めなければならない状況に働いている。
 
理解するが、のらりくらりしていることだ。
 
安全、安定のために始めた農耕。そのために所有、家畜化という概念ができ、逆に狩猟民族だった時にくらべ奪い合いが始まる。確実性を求めたために戦い、長時間労働、退屈になってしまった。それを誤魔化すための酒や祭りを生み出した。 
敵から守ってもらうための戦士や、収穫をもたらす神への奴隷となった。それが、やがて神にかわり、人が王となり、その偉大さを演出するための建造物や護衛、儀式、王制を擁護する宗教が必要となった。それは重税に従わなければならないことを、納得させるものでなければならない。シンプルな宇宙観(全一)から、安全、安定のために差別的幻想世界(二極化)にしてしまった。
 
自分を既製品化することで、自他共に安心させるくせがある。
 
「私は、散々否定した存在たちによって支えられている」ことを忘れてはならない。
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